コンベションの限界

コンベのダメな処も書くべきじゃね?という話を聞いて納得したので少し。



TRPGを遊ぶ方法としてのコンベションには、継続性と言う意味で限界がある。
要するに「同じ人と末長く遊ぶ」には向いてない、と言う事だ。


コンベで「この人と気が合うな」と思っても、その後同じサークルに入ったりしない限りは中々卓を一緒にする機会がないので、そんな風に思うのだ。


(もしかしたらNEXTのように隔週で開催されているコンベなら違うかも知れないが、アレはアレで一種のサークル活動ではなかろうか)



で、じゃあ、何故「同じ人と末長く遊ぶ」必要があるかと言うと、熟練度と言う話になる。


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TRPGに「熟練度が必要か?=学習が必要か?」と言う話も、延々と続く命題だ。


私は別に苦行主義者では無いので「D&Dを遊ぶならPHBの呪文くらい暗記しろ」「ビホルダーの移動速度を暗記して無いのなんて有りえない」「機会攻撃を忘れるのが許されるのは初心者までだよねぇ」みたいな意見には賛成しない(笑)
TRPGが趣味である以上、強要されて勉める必要は感じていない。


でも、それは「TRPGに熟練する事に価値が無い」と言う意味では無い。
好きな物に熱中し、学び、試し、改善し、競い合い、高め合う意味はある。
そして、TRPGが多人数で遊ぶ趣味である以上、共に熱中し熟練しようと切磋琢磨する仲間がいると言う事には重要な意義がある。


ビギナーさんと遊んでいて、自分がかって通った道を楽しそうに遊んでいる姿を見るのは楽しいし、それがきっかけでTRPGという趣味を好きになってくれるのは嬉しい。


だけど、磨き上げたチームワークや試行錯誤を重ねた結果作り上げたデータが以前なら勝てないほどの敵を倒せた時の喜びや、巧みなキャラデータの組み合わせで想像の範囲外にあった個性的なキャラを見た時の感心など、積み上げた結果として現れる物もある。



ぶっちゃけると、たとえばPCがAという場所ではなくBという場所に移動したとして、そこには敵味方の戦力の理解とか、2手先3手先を考えた戦術思考とか、それを生かしてくれる仲間への信頼とかがあったりするのだけど、周囲の人がそれを理解していなければ、単なる「Bに移動した」というだけの話になる。


研鑽の結果「AではなくBに移動する」という能力を身につけた者としては、そこは理解して貰いたいのだ。



んー、どうも分かりにくいか。
例えば将棋のプロ(棋士)がビギナーさんと楽しく将棋をする事が不可能とは思わない。
駒落ちで遊んでも良い訳だし、意図的に飛車角狙いなど派手な打ち方でエンターティメントを狙っても良い。


だけど、棋士同士が真剣に打つ一局には、それはそれで別の価値がある筈だ。
定石を覚え、何度も棋譜を見直し、研鑽に研鑽を重ねた人同士でしか分からない素晴らしさ、面白さはきっとそこにある筈だ。


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で、TRPGが熟練した時の遊び方を知るには、(上にも書いたけど)熟練した仲間が必要だ。


その為にも、同じ趣味を持つ仲間には熟練度を高める為に色々とサポートしたいと思う。


そう、ビギナーさんに親切にするのはボランティアでも無ければ滅私奉公でも無い。
「一緒に遊んで楽しい、もっと良いプレイヤーに育ってほしい」という個人的欲求だ。
勿論、相手が良いプレイヤーになった時に自分がつまらないプレイヤーになっていたら意味が無いので、自分の研鑽も忘れてはいけない。
自発的な意味で、一緒にTRPGを研鑽して互いに高め合って行きたい、と思うのだ。


その為には、やっぱりある程度は継続的に同じ人達と遊ばない事には、相手の良い所や悪い所を伸ばしたり修正したりするのは難しい。


勿論、広い意味ではコンベでTRPGプレイヤー全てのレベルを上げていけば、何れは自分の周囲も上がっていくのかも知れないけど、それは何か遠大すぎる目標だ(笑)



そんな訳で、TRPGをもっと楽しむには自分に加えて周囲のレベルアップも必須な訳で、その目的の為にはコンベでは今一つ十分では無い。
そこがコンベの限界なんではないかと思う。