TRPGのゲーム的ストーリー

>ご意見お待ちしております。
白河堂さんの『神饌喰い。』に『行為のミメーシス』というコラムが上がりました。
気が向いたので、この言葉に甘えて自分の意見を挙げてみる事にしました。


簡潔に要約させてもらうと「TRPGでは『ゲーム性』と『ストーリー性』が対立しているように言われているが、実際は『ゲーム的ストーリー』と『小説的ストーリー』があるだけだよ」という話だと私は理解しました。
(小説や映像、演劇など従来のメディアによるストーリーを、ここでは小説的ストーリーと表記しています)


うん、確かにそのとおり。 基本的には異論はありません。
でも賛成だけでは議論は終ってしまうので、無理に疑問点を考えてみると、疑問はその先にありました。


「じゃあ、どこまでが『ゲーム的ストーリー』で、どこからが『小説的ストーリー』なのか?」


白河堂さんの文章から引用すれば、その基準は『“行為”選択の基準の提供とその結果の動的応答性』の有無でしょう。


そこで問題です。 この二つは『ゲーム的ストーリー』or『小説的ストーリー』?
ハンドアウトでPCの立ち位置がセッションに予め組み込まれ、フェイズに沿ってイベントをこなす事でフラグが立って、
 エンディングフェイズに自動的に突入し、よっぽどヘマをしない限り戦闘に勝利して、最善か次善のエンディングに行く」


「用意されているのは地下迷宮と中に潜む怪物と宝物。そしてなにやら邪悪な儀式をしているかもしれない敵だけ。
 迷宮自体はPCの設定に左右されず、戦って勝てない敵など幾らでも存在し、撤退や全滅も5割程度の頻度で有りえる」


後者は、明らかに“行為”選択の基準の提供とその結果の動的応答性があります。


ところが、前者のシナリオでは基本的なストーリーは、ほぼ固定しています。PLが無理にシナリオブレイクしたり、GMがマスタリングや戦闘バランスを間違えない限り、エンディングに向かって一直線です。
(ボスを無理やり交渉でねじ伏せ、戦闘をしないという展開の可能性も0じゃありませんが、戦闘するのを推奨されてますよね)


でも、PCがどんなふうにイベントをこなすのかは自由です。
情報収集のシーンで渋く決めるのも2枚目半を演じるのもPLの自由ですし、TRPGの醍醐味でしょう。


この場合、前者は“行為”選択の基準の提供とその結果の動的応答性がありますか?
ストーリーの骨格もエンディングもほぼ固定であるのに、動的応答性があると言えるのでしょうか?


これがYesなら、"吟遊詩人GM"の"一本道セッション”もまた、動的応答性があると言えませんか?
何故なら、一本道セッションでも最終的にNPCGMの意向通り進むとはいえ、PCの発言くらい許されるでしょうから。



私は『ゲーム的ストーリー』の範囲について、明確な結論が出せるとは思えません。
それは、実際のセッション内容、個人個人の嗜好やTRPGへの理解などに大きく依存するでしょう。


なので「TRPGは行動選択の余地がある『ゲーム的ストーリー』が望ましく、『小説的ストーリー』は相応しくない」という点までは分かるのですが「ストーリーを志向するGMは、だからこそゲームデザインを大事にしよう」と言われても、『ゲーム的ストーリー』の範囲が不明なので指針としては力不足だと思われます。



今回のコラムでは「吟遊詩人GMが読み上げるお話をPLが一言も口を挟まず聞くようなセッションは正しくない」という点を小説的ストーリーの否定という形で明確にしてくれましたが「TRPGのセッションとして、どこまでのゲーム的ストーリーが許されるのか」という点については不明瞭なままのように思います。


そして「ゲーム派」と「ストーリー派」が争点をしているのも、正にその「ゲーム的ストーリーの範囲はどこまでか」という点ではないでしょうか?



ちなみに私は「セッションによっては“行為”選択の基準の提供とその結果の動的応答性は極めて限定されても問題は無い」と考えます。
つまり、前者のセッションも後者のセッションも立派なTRPGであり、"吟遊詩人GMの一本道セッション"も動的応答性の有無が問題点である訳ではない、と考えているのです。


・・・どーもややこしい話になった気がするな。
『ゲーム的ストーリー』の範囲をどう考えるのかを聞いてみたかっただけだったのですが。