議論やコラムもどきの価値


「聖者の異端書」という本が面白いんだけど、ここで本の紹介をするつもりは無いので割愛。
ただ、その中で「真理を見つける事と、手に入れる事は違う」というニュアンスの文章があって、ちょっと感銘を受けた。


○○○
ここで書き殴っているTRPGについてのあれこれも、直接的にはマスタリングやプレイングの技量向上には役に立たないと思う。
首ナイフ問題や粉塵爆発問題なんかは特にそうだ。 あれが実際のマスタリングの何の役に立つのだろうか?
そんな面倒な事を考えなくても状況判断能力に優れた人はいるし。繊細な心配りを出来る人も幾らでもいる。
セッションを巧みに運営する為には、実践を繰り返すほうが有効な場合も断然多いだろう。


だから「TRPGに対する議論なんか無駄で、とりあえずもっとTRPGを遊びなさい」という意見には一面の真実がある。
でも、無駄と言い切るのはまだ早いんじゃないだろうか。


TRPGのマスタリング論やシステムの分析などは理論なんだと思う。


スポーツ理論を例に出すとわかりやすいかな。
スポーツ理論を極めても、短距離走でオリンピックで金メダルを取れる保証はどこにも無い。
だけど、スポーツを実施する上での障害を乗り越えるのにスポーツ理論は役に立つ事も多い。


TRPGの議論や分析も同じで、議論はだいたい荒れるか自然消滅、あるいは何となく結論は出つつも『卓によるから何とも
言えない』という感じになって絶対的な結論は出る事が無いし、ブログなどの書き込みは書き手が書きたい事を書いている
だけでなんらメッセージ性を持たない物の方が多いだろう。


でも、TRPGを遊んでいく上で何らかの障害にあった時にその先を示してくれる指針としての価値はあるんじゃなかろうか。
その示し方は『ゲームの面白さの再認識』や『面白そうなシステムの紹介』だったり、『欠点の指摘』だったりするのだけど。
(同時に「TRPGの議論だけしていてもマスタリングやプレイングの腕は上昇しない」という意味もある)


○○○
理論と実践をどの程度の割合で取り入れるかは個人差にもよるし、時期もあると思う。


私の場合は約一年前がそうだった。
普通にTRPGは遊んでいたけど、自分自身にもプレイグループにも停滞感が漂って新しい事をする意欲もなかった。


私は理論と実践が両方無いと動けない性質だし、ちょっと山に突き当たって乗り越えるための指針が欲しい時期だった。
そんな時にある人にあって幾つかの指針となる理論をもらえたのは本当に幸運な事だった。
おかげで自らを振り返る切欠を手に入れる事が出来たし、今後見失う事もないと思う(少なくとも同じ理由ではね)


できれば、今度は私がどこかの誰かに同じように手を差し伸べられたらな、と思う。