善との付き合い方【D&D3.5e】

D&Dのサプリに「高貴なる行いの書(通称:善本)」と言う物がある。
実は以前から注目してたのだが、諸事情によりネタにするのが遅れていたので、今回の話はこれ。


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D&Dの不文律の1つに『アライメント論は避けろ』と言う物がある。
「善とは何か」「悪とは何か」についてモメにモメた結果、先人が残した教訓だ。
勿論、私も昔アライメント論でグタグタになった経験が何度もある(笑)


現実世界における正義の定義は難しいし、それを万人に受けれいてもらおうと言うのは至難だろう。
それを考えればゲームの中とはいえ、善悪を問う話はモメやすいのは間違いない。


でも、それはもう過去の話だ。 10年の前の話だからね。
TRPG世界はアライメント論争が起きた頃からもう10年も経ちプレイング技術も発達してきた。
今なら、もうアライメントを題材に遊べるようになってるんじゃないだろうか。


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善本は、そのイカれた特技とプレステージクラスに目を奪われがちだけど、その真髄は「善の定義」にあると私は思う。
重要そうな点を抜書きするとこんな感じ。


・目的は手段を正当化しない。
・容易な善の道は無い。
・悔い改める道は開かれている。
・法の精神を伴わない法は正義ではない。
・神の意思は容易に確認できる。
・デティクト・グッドに反応するのが善。


こうやってゲーム内の正義が明確化されるというのはとても凄い事だ。


例えば、「99匹の羊の為に1匹の羊を見捨てる事を善は許容するか」という話題がある。
100匹全部を助ける方法があればそれが最善なのは誰もが判るけど、どうしてもどちらかを選ばなくてはならない時にどうするのか。
善本では「99匹を見捨てるのも1匹を見捨てるのも善ではない」と定義している。


この際、この定義の正しさは問題ではない。
「善本を使用する」と設定したセッションでは、善は「目的は手段を正当化しない」のだ。
(勿論、善本の"善の定義"を使用しないのは自由だが、それは事前に卓上で合意を取るのが礼儀だし筋だろう)


こうやって「善本的"善"」が定義される事で、少なくともゲーム中のアライメント論争の大部分は避けられる。
善本を導入するかどうかは、ゲーム前に相談するべき事柄だ。


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次に、明確化しなくてはいけないのはPLとPCの分離だ。 いわゆるメタゲーム的視点。
古来、グタグタになる可能性が高すぎでTRPGで禁じ手の1つだった「PC同士での戦闘」を捌くと言う意味では
巷で言うFEAR製のシステムはとても優れている物が多い。
(個人的には、PCとPLの価値観の相違を一番上手く遊べるのはN◎VAかな、と思う)


例えば、D&Dにはパラディン(聖騎士)というクラスがある。善と法を守り神々の恩寵を受ける正義の騎士だ。
パラディンのPCには法と正義を守る義務がある。
けれど、パラディンのPLには法と正義を守る必要が無い。 これを自覚する必要がある。


何故なら、善本を初めとするD&Dのシステムには善とは何か、堕落とは何か、具体的にどんなルール処理をするのか、どの魔法を使用すると贖罪が果せるのか明確に定義されている。
使用しないルールに無駄に手間をかけてデザインされる可能性は0ではないが、デザイナーを信用するなら「堕落した場合の処理が明確である=堕落しても対応可能」と考えるべきだ。


ソードワールドでPCがモンスターとして暴れるルールが明確化されてないのは、デザイナーがモンスタープレイを考慮してないせいである。
同様に、D&Dで堕落する為のルールが明確化されているのは、デザイナーが堕落を考慮しているからだろう。


もっと簡単に言うと「堕落しても良いよ」とデザイナーは言ってるのだ(笑)(DMや卓の仲間が許容するかは別)


現状、"聖騎士"というのは「アライメント論争」を避けつつ「正義」をネタにパラディンをする事になり、だいたいはコミックリリーフとして存在する。
「頭の固い信仰馬鹿」とか「逆上撲殺悪マシーン」とかね。
あるいは「ちょっと良い人」くらいで済ませてしまう場合も多い。


まぁ、それはそれで構わない。 
パラディンの善や正義なんて、クラシックD&Dクレリックの刃物が持てない並みの、ただのバランス調整の為の制限だと考える事は十分可能だ。


でも「善の定義」と「メタ的視点」という2点を押さえていれば、ロールプレイはもう1段階ストーリー的に深い話ができるんじゃなかろうか。


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具体的例をあげてみる。
「ゴブリンのジレンマ」という命題がある。


降伏したゴブリンをどうするか、というネタだ。
ゴブリンはこれまでも人を殺してきただろうし(ゴブリンの子供は無罪かな?)、見逃せばまた人を殺すだろう。
かといって、降伏したゴブリンを(特にゴブリンの女子供を)虐殺するのもどーしたものか。


まず、善本に従うなら上記のどちらも善なる行為ではないので聖騎士(や、それに類する善人)の取るべき道ではない。
それを踏まえた上で、実際のセッションで見られる光景は主に二つだと思う。


ひとつは、泣きながらゴブリンを斬る。
別に泣こうが喚こうが行いが善で無いなら、聖騎士の取るべき道では無いので堕落する可能性は常にある。
これに対して、多くのDMは特にペナルティを与えない傾向にあると思う(私が知る範囲ではね)


もうひとつはPTメンバーがフォローする。
聖騎士を見張りなどの理由で遠ざけて、その間にしかるべき処理(この場合は惨殺かね)をする。
この場合も、騙された聖騎士にペナルティを与えるDMは少数派だと思う。


一応、もうひとつ、パラディンが正義に拘った結果、PT崩壊という可能性も無くは無いが、これはメタゲーム的視点から見て、
セッションを楽しむ要素になりえないなら、明らかに失敗なので考慮しない。
メタゲーム的視線,PLとPCの視点の分離は忘れないようにしましょう。


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ここまでが従来の遊び方「アライメント論争」を避ける遊び方だ。
じゃあ「善の定義」と「メタ的視点」を生かした遊び方は何があるだろうか。


ひとつは、パラディンが「ゴブリンのジレンマ」に正面から対応する場合だ。


善本には「捕虜は名誉ある扱いをする事」が善の行為として明記されており、悪のクリーチャーを改心させるシステムも明記されている。
最低7日間の間、捕虜として遇し、その間に善の素晴らしさを訴える。
悪のクリーチャーは善人の<交渉>に対して7回の特殊な意思抵抗判定に続けて失敗すると性格が一段階、善側に移行する。
(手っ取り早く言うと洗脳なので個人的にはどーかと思うが、D&Dはこれが善と定義してるのでしょーがない(笑))


なので、パラディンは降伏したゴブリンを自分の庇護下におき、恐らくゴブリンに家族を殺されたり、財産を侵害された付近の住民から守り、ゴブリンに生存権を認めない既存の権力機構に抗いつつ、ゴブリンを改心させるべきだ(理想はね)。


ちなみにゴブリンが改心すればokという話でも無い。
ゴブリンが改心した後も彼らが再び悪の道へ踏み外さないように配慮する必要もある。
たぶん、ゴブリンに理解のある鉱山主でも探して仕事と住居と生きがいくらい用意してやって、とりあえず一息と言った所だろうか。


ここまですれば、パラディンは「ゴブリンのジレンマ」をきっちり対応しきって善の行動を成した、と言えるだろう。
これは「善の定義」が明確だから出来る事だ。
(念押ししておくけど、善の属性のPCや聖騎士の全てが全員これをしろ、と言ってる訳じゃないよ)


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次の手段としてはメタゲーム視点からの対応だ。


他のPLと共謀し他のPCにゴブリンを処理(殺すでも逃がすでも)をしてもらい、それをネタに処理したPCと聖騎士PCが対立する。
あるいは、聖騎士自身が処理を行い、その後、対応の正当性について疑問を持ち、「善」に疑問を持つ。
後者の場合も他のPLの協力があった方が盛り上がるだろう(「偽善者」と罵ってもらうとかね)


どっちにせよPCは厳しい選択を迫られ苦しむと思うが、PLはどうあるべきだろうか。
そんなの決まってる。 楽しめば良いんだよね。


唐突に話は変わる。
あなたのPCに「幼馴染の許婚キャラ」がいると設定したとしよう。
この「幼馴染キャラ」がオープニングにちろっとでて、エンディングにまた少し出るだけだったら、どうか?
エンディング時に「あなたのPCと幼馴染の許婚キャラは、ごく普通の生活を過ごしました。終わり」と言われたら?
私なら「設定が意味無いぞ!」と思う。「ピンチになるとか、攫われるとか、せめて日常の象徴として守るくらいの展開がいるだろ」と。


このようにPCの設定の中にはその存在が脅かされて初めて真価を発揮する物はたくさんある。
「善」はその1つだ。


「善」が揺らぐからこそ聖騎士のロールプレイに味がでるのだと思う。
ただの"制限"、縛り付ける鎖にしかなら無いなら聖騎士を楽しんでると言えるのだろうか。


PC同士の関係なんか善悪を基準に愛憎入り混じってグタグタになれば良い。
メタゲーム的視点が無かった古いプレイスタイルでは罪悪でしかなかったその展開も、最新のプレイスタイルで遊べばとても盛り上がる展開になる筈だ。
(嘘だと思うなら、いわゆるロールプレイ支援のルールの整ったシステムで『負けプレイ』をしてみれば良い。
 NPCにボロ負けしてから逆転したり、、他のPCにボコられてから和解する楽しみは確実にある。勿論個人の嗜好はあるけどね)

だから、聖騎士のPCは常に"善"を目指していたとしても聖騎士のPLが"善"を目指す必要は無い。
むしろ、多少(あるいは明確に)善悪のボーダーラインスレスレを通る方が楽しいはずだ。


(ちなみに、善本に上げられてる"善のNPC"達も結構微妙なPCがいる(笑) 悪のクリーチャー殺すのが目的とか、危険な冒険しかしないとか。
どっちも善の行為としては最善じゃないのにね)


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また「善本」には、善行(慈悲とか)は報われるようにするべきだ、とも書かれている。


私はこれを、D&D世界の根幹は善悪の対立であり、善はその旅の過程で悪による様々な誘惑や損害に苦悩しつつも、いずれより大いなる祝福を得る事を示しているのだろうと解釈している。


善の体現者がまったく揺るがず善のまま善を貫くのは凄いとは思うが物語的には単調だろう。
楽しく”善と付き合う”為には、やっぱり善を迫害するべきなんじゃないかな(笑)


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オマケ


大変便利なハンドアウトパラディンを示すと、どうなるだろうね。 例えば感じで。


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PC1:推奨クラス:パラディン
君は善なる神に仕える戦士であり、人を導く指針である。
これまで君は自分の信じる正義を疑う事は無かった。


だが、あの時。 君が手を下した相手に肉親がいると知った時。
・・・君の『正義』に迷いがよぎった。


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PC2:推奨クラス:特になし。
君には兄がいる。 いや、兄がいた。
その兄は控えめにいっても善人とは言えず、むしろ悪人と呼ばれる事のほうが多い。
それでも君には唯一の肉親であり、兄も君には優しかった。


その兄が殺された。それは正当な裁きであり、非の打ち所は何も無い。
・・・でも、君は頭を撫でてくれた兄の手の暖かさが忘れられない。


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これに加えて、今回予告かプレアクトでPC1とPC2の関係や、今回のセッションでの最終的な敵となる大悪をほのめかしておけば、
PC1とPC2は「正義」についてグタグタしつつ、最後には(一時的にでも)和解してミッション達成に進むでしょう。
その過程でパラディンが1度”善"に背を向けるかも知れません(当然、戻ってくるけど)


ハンドアウトを使用しなければ使用しないで別の面白さがあるとはいえ、こうやって気軽に遊べるんだからハンドアウトって便利だなー。